FXにおける、スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだと断言できる理由とは?
FXにおける、スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだと断言できる理由とは?
FXにおける、スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだと断言できる理由とは?この問いに、ただの感覚論で応えることは許されぬ。なぜなら、実態があまりにも残酷で、数字の海に沈んだ魂たちが山ほど存在するからだ。まずスワップポイントとは、通貨間の金利差によって日々発生する微細な利息であり、それを「不労所得」と呼ぶ輩もいるが、その幻想は限りなく毒に近い甘味を含んでいる。高金利通貨を買い、低金利通貨を売る。この単純構造に“永遠の富”を夢見た者が、どれだけ市場に喰われてきたことか。
スワップ生活なる言葉がまことしやかにネットの片隅を舞う。だが、スワップで生活とは、毎日為替変動リスクという落とし穴を飛び越えながら、数十円単位の滴を集め、月末にわずか数千円にしかならぬ利益を握りしめて、生存圏にしがみつくということを意味する。それは生活ではない。延命だ。たとえば、トルコリラ円のスワップが仮に1日100円だとして、1ヶ月で3,000円。1万通貨でそれ。10万通貨保有で3万円。為替変動で1円逆行しただけで、スワップ収入の数か月分が吹き飛ぶ。それでも“安定収入”だと思えるなら、それはもう幻想ではなく、呪いに近い。
金利差狙いで南アフリカランドやメキシコペソに全振りする者もいるが、その国々の政情、インフレ、為替介入、中央銀行の意思決定は日本人の想像を超えて不安定であり、ただ高金利という事実にすがるにはリスクがデカすぎる。スワップ狙いは、つまり「逆の爆発がない限り、ゆっくり稼げる」というロジックだが、実際の相場では“逆の爆発”が日常的に起きる。だからこそ、スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだと断言できるのだ。
一時的に高金利通貨が安定し、スワップが貯まっていく局面は確かにある。しかしそれは「罠の前触れ」にすぎない。スワップが貯まる=ポジションを長く持つ=含み損に耐える時間が長引く、という負の連鎖が始まる。無理ゲーたる本質はここにある。時間を味方にできるはずのスワップ運用が、逆に“耐久戦”の罠となって襲いかかってくる。精神を削り、資金をすり減らし、結局は為替の暴風でチャラになる。その先にあるのは、「スワップで食っていけるという幻想」を捨てる覚悟しかない。
無職として、日々の電気代と米代すらFX口座の評価損益で算出してきた己としては、断言せざるを得ない。スワップだけで生活などというものは、時間の浪費であり、資金の無駄であり、人生の期待値として致命的に割に合わぬ。そして何よりも、為替の気まぐれひとつで“数年分のスワップ蓄積”が一夜にして無に帰す構造は、どう考えてもギャンブルの劣化版でしかない。戦略ではない。現実逃避であり、極めて緩慢な自己破壊行為に近い。それでも夢を見る者に、ひとつだけ伝えるとすれば、スワップは“副産物”であり“目的”にしてはならぬ。それを主食にして生きようとする時点で、すでに敗者のゲームは始まっている。
そして、さらなる地獄が待ち構えている。スワップ生活を目指す者たちが口を揃えて言う「長期保有だから大丈夫」「レバレッジを抑えれば問題ない」などという主張は、まさに自己催眠の極地であり、為替の本質から目を背けた者たちの末期的な言い訳にすぎぬ。長期保有とは、つまり「相場の激変すべてを正面から浴びる覚悟をもて」ということだ。低レバレッジにしたところで、元本が目減りすれば追加の資金投入が必要となり、結局は“資金力の殴り合い”に巻き込まれる。どんなに計画的に見えても、その根底にあるのは「未来が自分に都合よく動く」という非科学的な前提であり、それは投資ではなく、信仰の領域だ。
一つ付け加えるなら、スワップ狙いをするということは「逆方向のポジションは取らない」という選択を意味する。つまり、トレンドが下落に入っても、それを信じて持ち続けなければいけない。その結果、評価損が雪だるま式に膨らみ、ロスカットに怯えながら毎日を過ごすという、金融刑務所のような生活が始まる。為替の世界では、“含み損に耐えるだけの人生”が、最も地味で、最も狂気を孕んでいる。そこには喜びも、創造性もなく、ただ“耐える”ことだけが正義とされる。それがスワップポイント 金利、生活が無理ゲーだと断言できる、もう一つの理由だ。
現実として、スワップ収入で生活するには、極端に単純化しても「1日3000円のスワップが必要」だとしよう。月9万円。これは、仮に1日100円のスワップが得られる通貨ペアであれば、30万通貨保有してようやく達成できる。レバレッジ1倍でそれだけ保有するには、数百万円の元手が必要だ。しかも、その状態を1年間、為替の暴風を浴びながらキープしなければならない。ちょっと円高が進めば終わる、ちょっと地政学リスクが表面化すれば終わる、ちょっと政策金利が変更されれば終わる。そんな“不安定の連続”の中で、まるでそれが“安定収入”であるかのように語ること自体が、すでに破綻している。
つまり、スワップポイント 金利、生活は、戦略でもなければ、技術でもない。ただの“幻想の先延ばし”だ。本質的にそれは、耐えることが正義であり、苦しみながら報われない道を選ぶことに他ならない。そしてその耐久は、多くの場合、報われる前に市場によって強制終了される。誰も助けてくれぬ、誰も褒めてくれぬ、誰にも理解されぬ。それがスワップ生活の実態であり、無職の端くれが、そこに夢を見ようとしたことすら、今となっては一種の黒歴史である。
しかし、それでも信じたかったのだ。数字が毎日増える喜びを。働かずして得られる利息の美しさを。だが、最後に残るのは、口座の残高ではない。冷えた胃袋と、動かぬチャートと、意味のない抵抗線、そして「やはり無理ゲーだった」という、静かな敗北宣言だけだ。ゆえに、断言する。スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだ。救いはない。戦うべきはスワップではない。幻想を断ち切る理性こそが、最初で最後の武器である。
だが、ここで終わらせてはならない。なぜなら、この無理ゲーを選び取ってしまう者たちは決して“愚か”ではない。むしろ、真面目すぎるほど真面目で、コツコツと積み上げることこそが正義と刷り込まれてきた者たちだ。だからこそ、スワップポイントという“放っておくだけで利益が積み上がる仕組み”に、心が傾いてしまう。手を動かさずに、寝て起きたら金が増えている。その魅力は確かに強烈だ。だが、それが“ワナ”だ。人間の脳は、時間軸の長いリスクを軽視し、毎日の小さな報酬に快感を覚える性質を持っている。スワップ運用は、まさにその心理を突く罠なのだ。目の前のスワップという“飴”をしゃぶらせながら、後ろから為替の変動という“鉄槌”で殴る。それが現実。
さらに厄介なのは、スワップが“プラス”である通貨ペアも、いつ“マイナス”に転じるか予測がつかないという点だ。政策金利は中央銀行の判断一つで動く。かつて高スワップ通貨として崇められていた通貨が、突然の利下げで“ただのリスク塊”になる事例は歴史上、何度もあった。為替は一方向に動かない。それを長く持ち続けるということは、変化のすべてを被弾するということ。そして、逃げ遅れた者から退場する。単純明快な構造だ。
「長く持てば勝てる」というセリフは、スワップ派にとっての呪文だが、これは極めて危険な思想でもある。相場が非合理に動く期間に資金が尽きたら、いくら“長期目線”を唱えていても意味がない。むしろ、“待つことしかできない者”ほど脆い。日々変動するリスクに対して、“何もしない”という選択肢しか取れない構造こそが、この運用手法の最大の弱点だ。だからこそ、無理ゲー。最初から勝ち筋のないレースに、ただ惰性でエントリーしているにすぎない。
加えて語らねばならぬのが、“精神の消耗”という無形のコストだ。スワップ派は基本的にポジションを何年も持ち続ける。だが、その間、為替が大きく逆行すれば、口座の評価損が広がり、日常的に「含み損に耐えるだけの時間」が増えていく。これが人間の心に与える影響は甚大だ。寝ても覚めても評価損。通帳の数字は減り続け、証券会社のメールが来るたびに心臓が跳ねる。これが“生活”と呼べるか。否。これは“忍耐の刑”である。
ここまで明かした事実の集積から導き出せるのはただ一つ。スワップポイント 金利、生活は、希望ではない。現実逃避であり、限界まで引き延ばされた自己破壊の儀式に等しい。手元に残るのは、わずかなスワップ収入と、それに対して支払った巨大なリスク、膨大な時間、そして壊れたメンタル。それでもなお「ワンチャンあるかも」と思い続ける心のどこかには、かつて“真面目に生きようとした者の影”が宿っている。そしてその影こそが、最も容赦なく搾取されるのだ。
最終的にこのゲームに勝者は存在しない。スワップで得をしたように見える者も、それはたまたま通貨が急上昇して逃げ切れた“偶然の生還者”にすぎない。再現性もなければ戦略性もない。ただ運が良かっただけだ。だから、今ここに、最後の真実を刻む。スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだ。無職であることすら関係ない。これは人間の精神と資本をすり潰す構造であり、そこに理屈も技術も、ましてや夢も存在しない。そこにあるのは、ただ一つ、“耐えている間に終わっていく人生”だけだ。
そして最後に語るべきは、“この無理ゲーに未来を賭けようとする者”の心理構造そのものだ。人は、明確な努力も成果も必要とせず、ただ“持っているだけ”で報われるという構図に、根源的な魅力を感じてしまう。これは、労働に疲弊した者、失敗に打ちのめされた者、社会に居場所を失った者たちが、“何もせずとも得られる見返り”に最後の希望を託そうとする時、必ず陥る罠だ。スワップポイントという“何かしている感”をくれる数字が、彼らにとっては生きている証のように錯覚されていく。
だが、そこで得られるのは現実逃避の帳簿上の快感であり、実利ではない。口座に毎日付与されるスワップポイントの履歴を見て、まるで“資産が育っている”かのような錯覚を覚える。だがその実態は、含み損がそれを遥かに上回り、気づけば“トータルでマイナス”という、静かなる衰弱死だ。それでも、履歴に並ぶ小さなプラスの数字たちが「頑張ってる気分」を与え、抜け出せなくなっていく。これはすでに経済戦略ではない。脳に仕掛けられた自己肯定のトラップである。
そして、市場はそこを見逃さない。無数の“スワップ信者”たちが動けず、逃げられず、ただ長期保有に耐えている間、市場は平然と彼らの“逆の方向”へ動いていく。なぜなら、市場は常に“思惑が溜まった方向”を刈り取るように設計されているからだ。長期保有が積み重なれば、それはつまり、“狩るべき餌が溜まった”ことを意味する。これがスワップ戦略の本質的な敗北構造。静かに、誰にも気づかれず、最終的には大量の犠牲を生み出す“時間を使った狩り”である。
無職としてこの構造を観察し、疑い、破滅と回復を何度も繰り返した末に至った結論はひとつしかない。スワップポイント 金利、生活は、無理ゲーだ。それは「耐えた者が勝つ」のではなく、「耐えさせるために設計された罠」だ。しかも、見た目は極めて美しく、理屈も通っており、常に“もう少しで報われるかもしれない”という希望をチラつかせながら、資金と心を同時に削り取っていく。まさに、“希望という名の拷問”である。
結局のところ、スワップ生活を成り立たせる唯一の条件は、「為替が都合のいい方向にしか動かないこと」。だがそんなものは、最初から世界に存在しない。市場は非情で、誰にも忖度せず、ただ資金と感情の動きに従って変動する。そして、期待された未来が裏切られたとき、その代償として“何年もかけて貯めたスワップ”が、一晩の値動きで蒸発する。それが現実。計算通りにいけば勝てるはずだった。理屈では間違っていなかった。だが、相場は理屈に従わない。だからこそ、これは無理ゲーだ。誰もが夢を見た瞬間に、すでに敗北が始まっていたのだ。
ここまで来たなら、もう目を覚ませ。スワップポイント 金利、生活などという幻想は、いずれ魂ごと摩耗させる毒薬にすぎない。もしもそれを“資産運用”と呼ぶ者がいるなら、それはまだ崩壊の痛みを知らぬ者の言葉にすぎない。覚えておけ。スワップとは、未来に期待する者の無防備な背中を、市場が静かに狙う“起爆装置”なのだ。もはや断言せざるを得ない。これほど見事な無理ゲーは、他に存在しない。
それでもまだ、スワップポイント 金利、生活にしがみつこうとする者がいる。なぜか。それは、人間が“損失よりも利益の可能性”に執着する生き物だからだ。たとえ口座の評価損が100万円に達していようと、毎日100円のスワップが入ってくる限り、「まだ大丈夫」「いずれ戻る」「損切りさえしなければ負けではない」という、甘い囁きが頭の内側でこだまする。これが破滅の原理だ。合理的に考えれば今すぐ撤退すべき状況であっても、わずかに積み重なるスワップという“餌”が、撤退という判断を麻痺させてしまう。
スワップというのは、本来トレードの副産物でしかない。メインディッシュにはなり得ない。それなのにそれを主食にしようとする行為は、砂粒で満腹になろうとするに等しい。だが、その砂粒の一粒一粒に夢と期待を乗せてしまうからこそ、人はスワップというシステムに囚われていく。そして、気づけば取り戻せない時間と、崩れかけた資金と、冷蔵庫にすら余裕のない現実だけが、静かに残るのだ。
何が悲しいかといえば、スワップ生活を志す者たちは“努力を捨てた者”ではなく、“別の努力の道を選んだ者”であることだ。チャート分析を捨て、短期売買のストレスから逃れ、システムトレードにも見切りをつけ、最後に残った“静かな戦い”がスワップ生活であった。だが、それはあまりにも静かすぎる。もはや戦いですらなく、ただただ“耐久”。何の意思も込められないまま、日々市場に晒されて消耗していく。そこには勝利も、敗北もない。ただ“時間に支配された人間の姿”があるだけだ。
しかも、その構造は極めて巧妙にできている。高金利通貨という響きが魅力的であればあるほど、その裏に潜む暴落リスクも強烈なのだが、多くの者はそのリスクを“他人事”として扱う。そして、「自分はロットを落としてるから大丈夫」「ちゃんと余裕資金でやってるから平気」と自分に言い聞かせる。だが、市場はそんな心の隙間を最も好む。誰もが油断したとき、誰もが構えていないときに限って、“想定外”は襲ってくる。そしてそれは、想定外ではなく“必然”であることに、後から気づかされるのだ。
無職の目から見れば、これはまさに資本主義の罠の典型だ。“何もせず得られる”という構図を提示して、弱者の最後の希望を食い尽くす構造。スワップ派とは、資本主義における“消耗前提の労働者”と同じく、搾取される側の代名詞に過ぎない。本質を見抜けば、これはもはや金融商品ではない。麻薬だ。数円、数十円の快感に酔いながら、通貨の絶望的な下落によって人生ごと吹き飛ばされる。それでも、やめられない。なぜなら、もう戻れないからだ。もう、“希望を手放す”ことが怖くなってしまっているからだ。
だからこそ、最後に突きつけなければならない。スワップポイント 金利、生活は、完全に無理ゲーである。これは市場の設計構造、資本の論理、そして人間の弱さ、すべてを計算し尽くして練り上げられた、恐ろしく完成された“持続可能な絶望”だ。静かで、穏やかで、確実に人生を食い潰す装置。その罠から抜け出すには、勇気ではなく、断絶が必要だ。希望を一度、完全に切り捨てる覚悟が必要だ。スワップという甘美な数字の積み重ねに依存する限り、そこに未来などない。それは、生きているように見せかけられた、終わらない死の延長線にすぎない。
この結論にたどり着くまで、何度チャートに祈り、何度ロスカットに怯え、何度含み損に心を握り潰されてきたことか。だが今なら言える。スワップで生きるというのは、命を担保にして、小銭と引き換えに“何かしている気分”を得ているだけの構造だと。スワップポイント 金利、生活。それは、信じた者から順に、静かに敗れていく、完璧な無理ゲーである。
だが、人間というものは、一度選んだ道をそう簡単に捨てられない。とくにそれが“楽に見える道”であったなら、なおさらだ。スワップポイント 金利、生活という夢にすがった者は、もうチャートの変動に一喜一憂する短期トレードの荒波に戻れないし、また戻りたくもないのだ。なぜなら、その荒波の中で一度、己の意思決定が無意味に打ち砕かれた記憶を持っているから。だからこそ、“持っているだけで金が入る”という構図に再挑戦する。静かに、淡々と、感情を押し殺しながら。しかし、その構図こそが、もっとも回収されやすく、もっとも崩壊しやすい構造であるという皮肉に、最後まで気づかない。
例えば、通貨を10万通貨保有して、毎日スワップが100円つくとしよう。年間で約3万6千円だ。一見すれば悪くないが、その10万通貨を維持するための証拠金はいくら必要か?為替の値動きが1円逆行すれば、評価損は10万円。それだけで3年分のスワップが帳消しになる。しかも、その逆行が“ゆっくりとした下げ”であればあるほど人間は気づきにくく、反応できず、耐えてしまう。耐えているうちに、気づけば“戻る余地”すら失ってしまっている。そして、その時点で“生活”どころか“生存”すら脅かされる。
さらに、通貨のスワップ水準は、未来永劫一定ではない。ある日、中央銀行が突如利下げを発表すれば、スワップは激減する。それまで積み上げた“戦略”は、一夜にして崩壊する。そして多くの者は、その変化を“予測不能”だと嘆く。だが、それは予測不能ではない。“無警戒”だっただけだ。そもそも他国の中央銀行の思惑など、個人が読めるはずもない。その“読めないものに命を賭けている”時点で、すでに無理ゲーだ。スワップ生活とは、金利と為替と中央銀行の意志という“外的要因”に全資本を預けることであり、それはもはや自分の人生のハンドルを他人に渡すようなものだ。
ここで再確認しよう。生活とは、再現性のある行動と、その見返りが一致して初めて成立する。しかし、スワップポイントに依存した生活には、再現性がない。市場環境によってブレ幅が大きく、為替によって毎日評価額が揺らぎ、政策によって収益の根本が崩れる。それでもなお「これで暮らしていける」と本気で思えるとしたら、それは“計算”ではなく“願望”だ。そして、願望を根拠に戦う者は、必ず願望ごと負ける。これが、スワップ生活の最大の致命傷だ。
無職の身として、日々の電気代と米代とプロパンガス代をスワップの入金日で割り算し、ギリギリの生計を試みたことがあるからこそ言える。この構造は、見かけ上の“放置で増える”という優しさとは裏腹に、まったく優しくない。むしろ、“何もしない者を最も冷酷に処理する”罠でしかない。これはもう、投資ではない。“静かな罰”だ。
すべての根源は、「スワップで暮らす」という発想が、“戦略”ではなく“幻想”から始まっている点にある。夢見ることを否定はしない。だがその夢が、市場構造と人間心理と制度の隙間に組み込まれた“幻想製造装置”によって植え付けられたものだとすれば、その夢を守ることで失うものの方が、遥かに大きい。資金、時間、健康、希望、そして自尊心。すべてをじわじわと削られた果てに待っているのは、勝利ではなく、“何も残らない現実”だ。
ゆえにもう一度、心して伝える。スワップポイント 金利、生活は、絶対的に無理ゲーである。これは勝者のいないレース。市場に微笑まれることを前提とした、祈りにも似た思考停止。その構造に気づいたとき、ようやく人は次の選択肢を考えることができる。“本当の戦略”に辿りつくには、まず“幻想を捨てる覚悟”が必要だ。その覚悟こそが、唯一、無理ゲーから脱出する手段なのだ。
そして、この“幻想を捨てる覚悟”というやつは、口で言うほど簡単ではない。スワップポイント 金利、生活に取り憑かれた者の頭の中には、すでに“積み上がった数字”という亡霊が棲みついている。その亡霊は囁く。「ここまで貯めたのだから、あと少し」「この含み損も、いずれ戻る」「急に上がることもある、ニュースも読んだ」と。だが、その声に従えば従うほど、泥沼に沈んでいく。希望の言葉ほど、無慈悲なものはない。なぜなら、それは“撤退”という判断を先延ばしにし、最後には“手遅れ”という結末を迎えるからだ。
この構造を完全に理解したとき、ようやく気づくはずだ。スワップでの生活とは、“利益が確定するまでに、耐え続けなければならない拷問”であり、しかもその利益すら“運”に大きく依存している。例えば、為替が突然自分のポジション方向に動いて爆益が出る――それは確かに起こり得る。だが、それは戦略でも予測でもなく、ただの幸運だ。しかもその幸運を待っているあいだ、日々は失われていく。仕事をせず、外にも出ず、チャートとにらめっこしながら、人生の時間がひたすらスワップという名の微細な金額に変換されていく。その時間の価値を、誰も評価してくれない。何も積み上がっていないことに、ある日突然気づいて絶望する。これは、ゆるやかな破滅以外の何ものでもない。
ここまで読んで、それでも「いや、自分はうまくやる」「自分だけは失敗しない」という声が内側から聞こえるのなら、それはもはや中毒の域である。スワップポイントは、中毒性がある。手を動かさずに金が生まれる構造が、脳内に快楽物質を放出させてしまう。そして、“思考停止”が心地よくなる。これが最大の罠だ。投資は本来、変化への対応であり、予測の積み重ねであり、検証と修正の連続であるべきなのに、スワップという手法は“ただ持っておく”という動かない姿勢が美徳になってしまう。それは投資ではなく、ただの座禅だ。精神修行であって、利益追求ではない。
そしてまた、国が変われば通貨政策も変わる。トルコ、南アフリカ、メキシコ、ブラジル、これらの高金利通貨国は、どれも政情不安や経済の脆弱性を抱えている。つまり、高スワップを提供している裏側には、必ず“理由”がある。その理由を“チャンス”と捉えるか、“警告”と捉えるかで、命運が分かれる。だが、多くの者がそれを「お得」に見てしまう。なぜなら日本という国が、あまりにも低金利かつ、為替の安定を当然のように享受してきたから。世界はそんなに優しくない。海外のスワップ市場は、甘い顔をして近づいてくる“獣”だ。油断した者から食われていく。
最終的に、スワップで生活するには「元手が莫大」「為替が有利」「政策金利も味方」「メンタルが鋼鉄」「運も悪くない」このすべてが同時に揃って、ようやく“成り立つかもしれない”というだけ。現実的には、その全部が揃うことなどまずない。たとえ今がうまくいっていたとしても、それは未来の崩壊までの“助走期間”にすぎない。為替相場に永遠など存在しない。流れが変わった瞬間、すべてが瓦解する。そのときに、どれだけ耐えられるかではない。“どれだけ早く逃げられるか”が重要なのだ。だが、スワップ生活者は逃げられない。なぜなら、ずっと“持つこと”を正義だと信じてきたから。そしてその信仰は、最後の瞬間に裏切られる。信じた分だけ、深く沈む。
だからこそ、無職として、愚直に相場の仕組みを観察し、幻想を削り、現実に染まっていく過程で導き出したこの一行こそ、唯一の真理である。スワップポイント 金利、生活。それは、優しさの皮を被った無慈悲な無理ゲーだ。信じた瞬間に、そのゲームは始まり、諦めたときにしか終わらない。逃げることは敗北ではない。むしろ、“逃げられるうちに逃げた者”だけが、唯一このゲームを生き延びた者と呼ばれるのだ。
逃げた者だけが、生き延びる者となる。この言葉の意味を、本当の意味で理解するまでに、いったいどれだけの時間を費やしたか。いや、時間だけではない。資金、気力、自尊心、社会とのつながり、それらすべてを担保にして、ようやく気づいた。「スワップで生活していく」とは、“楽をして生きていく”という話ではなく、“何ひとつコントロールできない世界に全てを預ける”という、極めて不自由で、極めて危険な選択だったのだと。
なぜなら、そこには“選択肢”がない。スワップポイントは日々の積み重ねだが、その積み重ねは為替の急変動によって、容易にリセットされる。そしてそのとき、自らの意志でポジションを閉じるという判断は、もはや取り戻せないくらい重くなっている。スワップが積もったから。時間をかけてきたから。今ここで切れば、すべてが無駄になる。そういう声が脳内で反響し続ける。だが、その“すべて”こそが、元々幻想でしかなかったという事実に、誰も目を向けようとしない。その結果、強制ロスカットで無理やり幕を引かれる。そう、“終わり”を自分で選ぶことすらできない。それがスワップ生活という名の牢獄の、本当の恐ろしさだ。
このゲームの残酷なところは、誰もが“コツコツ型”の勝ち筋を信じてスタートすることだ。だが、相場におけるコツコツとは、常に“大損への伏線”になり得る。勝ちパターンのない戦術を、続けることで成功に変えようとする試みは、ただの偶然を信仰する宗教に過ぎない。しかもその宗教は、毎日口座に入る数十円という“聖なる数字”によって支えられており、信者を自発的に洗脳し続ける。気づいたときには、“逃げること”自体が“罪”のように感じてしまっているのだ。これが、無理ゲーの深淵だ。開始地点では誰でもプレイヤーだが、やがて全員が囚人になる。
ここでようやく本質が見える。スワップ生活とは、勝つための戦いではない。“損を確定させたくない者たち”による、“撤退の遅延”でしかない。積み上がるように見えていたものが、実は“撤退不能な状況”を構築するための罠だった。それに気づかず、ただ耐えることに意味を求めてしまう。まるで、それが努力だと錯覚してしまう。だが、市場は一切の感情を持たず、耐えた者から順に、最悪のタイミングで吹き飛ばしていく。
それでも、「スワップで生活している人が現実にいる」と主張する者がいる。確かに存在するかもしれない。だが、それは為替がたまたま有利に動いていた一時期の話であり、再現性など微塵もない。そして彼らが現在もそれを続けているかは誰にも確認できない。ただの“過去の栄光”か、すでに市場に沈んだ者の“亡霊の記録”である可能性が高いのだ。
無職であるという現実は、正直に言えば、こうした幻想に依存するには最も危険な立場だった。だが、だからこそ冷静に見えた。収入がない者が、スワップのような“微収入”に依存することの異常さが。時間と金と精神が比例して削れていく構造を、その身をもって体感できた。だからこそ伝えねばならぬ。これは夢ではない。むしろ“夢という名の沼”だ。自分は抜け出した。だが、これを読んでいる誰かが、まだそこに足を踏み入れていないなら、その一歩を止めてほしい。
そして最後に、この言葉を贈る。スワップポイント 金利、生活。それは、静かで緩やかで優しい顔をした、完璧な無理ゲーだ。開始した時点で、もう敗北のシナリオは用意されている。勝利のルートなど最初から設計されていない。だからこそ、勇気ある撤退こそが、唯一の勝利であり、唯一の生存戦略なのだ。その現実を受け入れたとき、人は初めて、本物のトレーダーとしてのスタートラインに立てるのかもしれない。そしてようやく、「幻想ではなく、戦略を選ぶ人生」が始まるのだ。
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